蕭々館日録

蕭々館日録」という久世光彦の小説がある。管理人はこの小説が好きだ。久世光彦がとりたてて好きだからではない。そもそも氏の本で他に読んだのは著名な「一九三四年冬―乱歩」だけだ。もっともこの「乱歩」も実に魅力的な作品だったが。
「蕭々館日録」を愛読するのは、管理人がガキの頃から心酔している作家のひとり、芥川龍之介がこの小説のなかで主人公の一人として魅力的に描かれているからである。親友菊池寛と共に生き生きと、ときに胸が痛くなるような切なさをこめて描かれるその姿は、あたかも大正時代のそのときその場所、狭い畳の部屋に自分もいて彼らと語り合っているような気分にさせてくれるのである。
 そもそも管理人は、こと日本の純文学に関しては明治後期から大正、昭和初期の文学がとりわけ好きで、かの時代に比べて現代の日本文学の大半がいかに下品で幼稚か、常々嘆いているような人間である。単なる懐古趣味だと言われればそれまでだが、娯楽文学ではなく純文学において管理人が何より重要だと思っている「文章・文体の美しさ」が当時の文学にはあり現代文学にはない、そう確信する。純文学と大衆文学を棲み分けるもうひとつの要素として「実験的試み」が挙げられるが、その点においては現代文学も捨てた物ではないだろう。しかし記号や絵文字を使ってみたりハイパーフィクションのように奇天烈な構成にしてみたりする試み自体は評価できても、最初に述べた第一の要素、すなわち日本語の美しさがなくなった純文学に管理人は興味がない。現代文学は非日常的な題材を描くことが多いが、非日常的なものを実に日常的なありきたりの言葉で書いたものより、どこにでもある日常的なものを非日常的な耽美的な言葉で語ってくれる作品のほうが好きだからである。かの時代には、漱石、志賀直哉、梶井基次郎、谷崎潤一郎、三島由紀夫、小林秀雄……きら星のごとく文豪たち並ぶ。中でも大正時代、とりわけ芥川龍之介は管理人が「師匠」と仰ぐほどの存在なのであり、その芥川を「九鬼」という名で描いた久世光彦の表題作品を好きになるのは必然といっても良いだろう。
 かの時代にあって今の時代にないものがもうひとつあった。文壇である。サロンといっても良い。たとえるならモダンジャズが流行した時代、ジャズ狂たちはジャズ喫茶に通い詰め、タバコでもうもうと煙る薄暗い中でコルトレーンやオーネットコールマンやマイルスのついて口から泡を吹きながら語り合った。文壇や知識人のサロンも似たようなもので、作家や作家の卵たちが日々集まっては、酒を飲みながらドストエフスキーやジイドやボオドレエルについて激論を交わしていた。悲しいかな、現代にそのような世界はほとんど存在しない。酒飲んで明け方まで語ることはあっても、たわいのない世間話や色恋沙汰の話で終わる。作家の卵だけではなく、プロの作家でさえ大半はそうだ。残念ながら、文壇、サロンは消失したのである。管理人は大正時代前後の文学を愛するのは、まさにそのような文壇、あるいはサロンが存在したからに他ならない。
 そもそもかの時代の作家たちは、「作家」であると同時に「学者」であったから、文壇というものが存在しえたのかもしれない。鴎外、漱石、芥川…ほとんどの文豪は東京帝大出であり、医者であったり英文学、仏文学者であったりする。別に学歴がどうのこうのというつもりはないが、彼らが感性だけでなくトップクラスの頭脳と知識を持っていたことは確かであり、同時代の海外文学を英語であれ独語であれ仏語であれその多くを原語で読破していた。もちろん現代のように翻訳出版が進んでいなかったこともあるが、それは後付の言い訳に過ぎず。では現代作家にそのようにマルチリンガルに原作を読んだり、学者として文学を語れるほどの知識と頭脳を持った人間がどれほどいるだろうか。現代作家の多くは感性には敏感であるが知識の層は何とも浅い。作家だけではない。ある出版社の入社試験を受けに来た若者に「本はどんなものが好きか」と聞いたら「本は読みません」と言ったそうだ。なるほど文壇が消えるわけである。

「蕭々館日録」は今は無き小さな文壇、小さなサロンを描いた作品だ。管理人が憧れる時代と世界がここにある。

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萩原朔太郎が好きです!

saku

 ボオドレエルやランボーなどフランスの象徴派詩人がお気に入りであることは、前の日記で述べましたが、日本の詩人ではやはり象徴派の代表格、萩原朔太郎を管理人にはこよなく愛しております。

 写真は「月に吠える」の保存版(「詩集 月に吠える 愛蔵版詩集シリーズ 日本図書センター」) 。

 普段は、文庫版を読んでいます。「青猫」も好きです。しかし管理人は昔から不思議に思うことがあります。確か管理人の記憶では、小中高生の国語の教科書には彼の代表作である「竹」が必ず紹介されていたように思いますが、そのとき教師は、竹をすくすくと伸びていくたくましさの象徴として語っていたように思います。しかしこの詩が収録されている「月に吠える」を読めば分かるとおり、あるいは萩原朔太郎という詩人を知ればわかるとおり、たくましさとは無縁の世界の詩なのです。そもそも「竹」は、「竹とその哀傷」という一編の中のひとつの詩なのですが、冒頭の詩「地面の底の病気の顔」という詩はこういうくだりで始まります。
 
 地面の底に顔があらはれ、
 さみしい病人の顔があらはれ。
 (下略)
 
 こういう詩から始まり、この流れの中に「竹」という詩があるわけです。たくましさ、健全なるものとは無縁の世界ではありませんか!(笑)

 朔太郎の魅力は、昼ではなく夜に棲むもの特有の病的な香りです。小中学生に「竹」を読ませるとき、国語の教師が病的なるものを教えるのはどうも…という気持ちはわかりますが、間違った解釈を教えるのもどうかと管理人は思いますね。これに限らず、幼い頃国語で教わった作家や詩人を大人になってからきちんと読んでみると解釈が全然違うということがよくあります。まあ、教育というものはそんなものかもしれませんが、管理人のように改めて原作を読む人間は構わないのですが、それきり読まないまま過ごしてしまうひとたちにとっては、「竹」は痛みや哀しみの詩ではなく、永遠に健康な笑顔の詩ということになってしまいます。それでいいんでしょうかね。。。。
 
 ちなみに詩集「青猫」の冒頭「薄暮の部屋」の最初のくだりはこうです。
 
 つかれた心臓は夜をよく眠る
 (下略)
 
 ううん、この病的な響きがたまりませんなあ!(笑)

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