「奇蹟系」映画は観たくない
最近の邦画は「奇蹟系」のストーリーが多い。「黄泉がえり」「いま会いにゆきます」「四日間の奇蹟」「この胸いっぱいの愛を」「世界の中心で愛を叫ぶ」etc。。。最愛のひとが死んで期間限定で蘇るとか、素晴らしかった過去に戻るとか、現実にはありえない奇蹟、神様の贈り物的な展開、この手の映画をわたしは「奇蹟系」「神様の贈り物系」映画と呼んでいる。ハリウッドの「ゴースト」あたりが走りだろうか。最近、極端にこの手の映画が多いように思う。
管理人はこの手の映画が苦手である。嫌いといってもよい。ヒューマン系感動作品は嫌いではないのだが、絶対に叶わない夢物語をストーリーの軸に持ってくること自体が好きではないのだ。例えば、亡き母親が蘇ったら?とか事故で死んだ人間があのときブレーキ踏んでいたら?とか、起きてしまったことを悔やんでしょせん「たられば」に過ぎない話を物語として語ることに、一種のむなしさを感じるからである。
ひとことで言えば軟弱さや女々しさを感じてしまって、たくましさというものが感じられないのだ(これらの映画のファンから怒られるでしょうが個人的な感想として割り切ってください)。死んでしまった者は蘇らない。いくら嘆いてみても過去は取り返せない。それを「たられば」で語ることは、野球で「あの一球さえちゃんと投げていれば」と語ったり、もし自分がお金持ちに生まれていたらとか、自分が美形に生まれていたらとかいう「たられば」のレベルと何ら変わらず、それこそ夢の中と同様何でもかんでもアリの世界になってしまう。もちろん誰にだって夢見たり後悔したり気持ちはあるわけで、あのときああしていればとか、あれをしなければ、と思うことは多い。しかしそれにこだわって奇蹟として実現してしまう行為は、未練がましい行為だと思う。それよりも今の自分、過酷な現実を踏まえてそこからはい上がる作品を描いたほうが、よほど夢があると思うし、感動できる。たとえば「解夏」などは、失明するという過酷な運命を受け入れて再生するまでの過程を描いていて感動的だった。コピーは「最後に何を見るか」だったわけだが、もしこれを「奇蹟系」に描くなら、「もう一度目が見えるようになるなら何を見るか」になり、失明した目が「奇蹟」によって1週間だけ見られるという筋書きになる。そんな映画は観たくない。
印象だけで恐縮だが、今の時代、なんとなく奇蹟系映画や小説、ありえない夢物語で涙するという風潮に溢れているような気がするのはわたしだけだろうか。世相的に明るいとは言い難い今、現実と未来への期待が薄く、昔を懐かしみあのころに戻りたいというような気持ちばかりが強いのかもしれない。もしそうだとすれば、ますます虚しいと思うのである。
同じ夢でも過去ではなく未来に向かう夢を見せて欲しいと思う管理人である。


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